黒川能(くろかわのう)は、山形県鶴岡市の黒川地区で受け継がれてきた能で、約500年続いてきたとされる。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
黒川能は、能楽堂で上演される能とは一線を画している。黒川能は「観客に見せる公演」ではなく、「神前へ奉納する年中行事」として成立してきたからだ。
この違いを先に押さえておくと、黒川能の特徴が整理しやすくなる。観客を喜ばせるための舞台ではない。決まった型を、決まった時期に、地域の人の手で、神に対して奉納する舞。これこそが黒川能であり、国が守るべき重要無形民俗文化財として位置付けている理由です。
この記事では、黒川能についてお伝えしたいと思います。
第1章|黒川能とは
黒川能が伝わるのは、鶴岡市の黒川地区。
名前のとおり、この土地独自の文化です。
大きな舞台もたくさんの観客も必要ない。
舞台芸術とはちがい、この地域の生活の一部として引き継がれてきた民俗芸能として理解してほしい。
担い手は職業の能楽師ではなく、地域の人々がすべてを担う。
舞い手だけでなく、囃子(笛や太鼓など)も、この地域の中だけで役割を受け持ってきた。
だからこそ、500年もの長い間、同じ型で同じ拍子で脈々と受け継いでこれたのだろう。
500年前は農民で読み書きができたとは考えにくい。
これは想像だが、舞の型も囃子の拍子もすべては口伝や見様見真似だけで受け継いできたはず。
不特定多数の人が関わっていたら、逆にこの文化は廃れていてもおかしくなかったと思う。
国の重要無形民俗文化財という指定は、建物のような「形ある文化財」ではなく、地域で受け継がれてきた技や行事、風習そのものを対象にしている。黒川能の場合は、上演の上手さを評価するというより、奉納としての形を保ち、地域の仕組みとして継承が成立していることが特に評価されたのではないだろうか。
ここまでを一言でまとめるなら、黒川能は「能の名作を上演する場」ではなく、「地域の年中行事としての能」だ。次章では、その年中行事がなぜ神前で行われるのかを整理したい。
第2章|なぜ神前で舞うのか(奉納の目的と、型が持つ役割)
黒川能は神前で舞われる。
ここが一番重要なポイントだ。
黒川能は、誰かに評価されるために上演されるのではなく、神前へ奉納するために行われてきた。
奉納とは、神社などの場で、芸能や供物を神へ捧げる行為です。
願いを言葉で表明することよりも、決められた作法で表現して伝えることに重きが置かれる。
黒川能が重視してきたのも、その性格に近い。
庄内の冬は雪が深い。
かつては道が遮断されやすく、支援や医療にアクセスしにくい状況も想定される。
冬は火を使う時間も増え、火災の危険も増える。
食べ物も乏しくなるし、寒さで体調の不安も高まる。
冬を越えることは今より切実な課題だったはずだ。
そのような環境の中で、年に一度、神前で一定の手順で、次の一年へ向けて願いを届ける。黒川能は、そういう立ち位置に置かれてきたと想像できる。そうすることで共同体としての秩序を保つ意味合いもあったかもしれない。すくなくとも、地域の一体感は生まれただろう。
では、なぜ「能」なのか。
理由を一つに断定するのは難しいが、構造として説明できる点がある。
能は、動きや順序が型として定まっている。
だから、役割が交代しても、同じ流れを通しやすい。
特定の名人がいないと成立しない形ではなく、役を引き受け、稽古し、まねて通すことで成立する形になっている。
神前で奉納を続けるには、毎年の開催が途切れないことが重要になる。
言葉の誓いや宣言は、解釈のズレが出やすい。一方で、型を通す方法は「やることが決まっている」ため、次の世代へ渡しやすい。黒川能が長く続いてきた背景には、奉納の前提と、型の性質がかみ合っていた面がある。
黒川能は神職や巫女さんではなく、武家や公家のような知識階級でもなく、本当に地域で暮らす平民たちの文化です。この時代の平民は学もなく、読み書きもできなかったはず。そんな平民たちでもできる神事が、能であったのだと想像できる。
第3章|王祇祭(2月1日・2日)(黒川能が行われる時期と意味)
黒川能が行われるのは、毎年2月1日から2日にかけての王祇祭(おうぎさい)である。春日神社が行う王祇祭という神事の中の一部として、夜を徹して奉納が行われる。
王祇祭は一年で一番寒さが厳しく積雪の多い、冬の真ん中に行われる。
冬の庄内は、雪深く、夜が長い。
生活の制約が増える時期に、地域が同じ時間を共有することがじつは大事。
長い夜を村人たちがあつまり、年に一度世を徹して楽しむ夜だったのではないかと思う。
派手な衣装や、豪華な料理はない。
ただ、非日常をただ楽しむ。
神に感謝しながら。
そういう夜であり、そういう二日間が、王祇祭であり、黒川能である。
第4章|当屋(とうや)という仕組み(能楽堂を持たずに続ける方法)
黒川能の開催形態で特徴的なのが、当屋(とうや)という仕組みだ。
その年に選ばれた家が、神を迎え、能を行う場になる。固定の能楽堂ではなく、普段は生活の場であるごく一般的な民家が、王祇祭の時期にしつらえを変え、奉納の場として機能する。
当屋は、もちろん準備と負担が生まれる。
人の出入りが増えるため、能を舞うに十分なスペースが必要だし、囃子たちが居るスペース、さらに観客がよりたくさん座り、たくさんの人が能を楽しめる配置を保たなければならない。
この地域の家は、この一夜のために、しかも一生のうちに何度か回ってくるこの当屋のために家づくりを行っていた。
この地域の家は、和室を何部屋も続けた続き間が当たり前にある。
これもこの地域の大きな特徴と言える。
この洞爺を務めることができる家を持つことができることが、この地域ではステイタスになっていたのかもしれない。
第5章|上座・下座と、とうふ祭り(継承を支える人と段取り)
黒川地区では、能を担う人々が上座(かみざ)と下座(しもざ)に分かれる。これは上下関係ではない。役割を分担し、奉納を成立させるための構造です。
継承が特定の個人の技量に依存すると、その人が抜けた瞬間に成立しにくくなる。黒川能は、地域内で役割を回すことで、毎年の奉納を「仕組みとして」成立させてきた。上座・下座のような分け方は、担い手が入れ替わっても運用が続くようにするための知恵のひとつだ。
さらに黒川能は、舞台上の担い手だけでは成立しない。場の準備、道具の段取り、食の用意など、舞台の外で動く作業が必要になる。王祇祭が「とうふ祭り」とも呼ばれてきたこと、凍み豆腐づくりなどの手仕事が奉納の時期に行われることは、奉納が共同作業として組み立てられていることを示している。
凍み豆腐は冬の寒さを利用して作る加工食品で、手間と時間がかかる。こうした作業が年中行事に組み込まれていることは、奉納が「その場の上演」だけでなく、準備と段取りを含む地域の仕事として存在していることを意味する。
黒川能が続いてきた理由は、気合や精神論ではない。王祇祭という年中行事の枠があり、当屋という開催形態があり、上座・下座で担い手を固定させず、食やきびしい手仕事まで含めて、すべてがこの地域の人たちの手で、共同作業で楽しみながら賄い、受け継がれてきた。だからこそ、500年経った今も営みとして続けられているのです。
まとめ|黒川能を理解する近道は「奉納の構造」を見ること
黒川能は、古い能が残っているという事実だけでは説明しきれない。神前で奉納される年中行事として位置づけられ、王祇祭の中で行われ、当屋で場が作られ、上座・下座で担い手が回り、舞台外の手仕事もすべてが理にかなった方法で運営されている。
黒川能の価値は、上演の一回だけにあるのではなく、毎年成立させる仕組みが地域の中にあることにある。文化財として評価される理由も、その構造と切り離せない。
この記事を入口に、黒川能を見るときは、能の美しさや歴史ではなく、「500年継続することができた理由」のように、バックグラウンドも楽しんでいただくと、よりこのイベントを楽しむことができるでしょう。
なんだか理屈っぽくなってしまったけれど、過疎が深刻化しているこの小さな街で、こういった歴史のある文化財を守っていくためには、表面上のことだけでなく、バックグラウンドを知ってもらうことも大事なのではないかと思って、私が知る限りのことをお伝えしたかったです。
もっと詳しく知りたい方はこちら公式HPをご覧くださいね。
毎年日程が決まっていますので、ぜひ一度は体験してもらいたいですね。
今日の記事はここまで。
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