今日も今日とて、盛大に脱線して気ままに思いのたけを綴ります。押井守監督とぬいぐるみの共通点を見つけたので、その話をいたします。
第1章:ぬいぐるみには表情がない
先日、何気なくテレビを見ていたら、ぬいぐるみには表情がないという話をしていた。
わざとそうしてあるのだという。
表情がない、フラットな顔だからこそ、私たちはぬいぐるみに表情を「視る」ことができるのだというのです。
子供たちは自分の感情に合わせて、ぬいぐるみに表情を視るということです。
楽しい時は笑顔。
悲しい時は泣き顔に。
わたしたちは自分の見たい表情をぬいぐるみに投影して見ているというのです。
子供たちは、ぬいぐるみ遊びの中で、無意識に彼らの感情を表現しているということであり、わたしたち大人は思いがけず、子供たちのぬいぐるみ遊びから彼らの深層心理を知ることができるというのです。
その話を聞いた瞬間、なぜか押井守監督のことが頭に浮かんだのは私だけでしょうか。
第2章:押井守という監督
押井守監督はは1951年生まれ、東京出身のアニメーション映画監督です。
竜の子プロダクションを経て、1980年代に『うる星やつら』シリーズの監督として頭角を現しました。
その後、1995年に発表した『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』が世界的な評価を受け、ウォシャウスキー姉妹が『マトリックス』の制作前にスタッフ全員に観せたことでも知られる。
『機動警察パトレイバー THE MOVIE』『イノセンス』『スカイ・クロラ』など、哲学的なテーマと独特の映像美を持つ作品を作り続けてきた、日本を代表するアニメーション映画監督のひとりだ。
そんな押井守監督の映画には、ひとつの際立った特徴がある。
登場人物の表情が、ほとんど、ない。
第3章:表情があるから、言葉が伝わらない
正確には、表情を極限まで抑えている。
これは偶然ではなく、監督の意図的な選択なのだそうだ。
表情があると、セリフが伝わりにくくなる、と監督は言っている。
最初にそれを聞いたとき、わたしはとても不思議に思った記憶がある。表情があった方が、感情は伝わりやすいのではないか、と。
でも実際に映画を観ると、そうではないとわかる。
たとえば『GHOST IN THE SHELL』の草薙素子は、サイボーグであるという設定もあってか、ほとんど表情を変えない。
それでも彼女のセリフは、わたしたちのこころに刺さる。
言葉が直接届いてくるような曇りのない感覚がある。
このセリフはどういう意味なんだろう?
彼女はどういう気持ちで言ったんだろう?
このセリフを言う意図はなんだろう?
表情がないから尚更、何を考えているか気になるのだ。
無表情のキャラクターが言葉を発するたびに、自分の中で想像が膨らむ。
登場人物たちに表情がないからこそ、私たち見る側が彼女たちの気持ちを推しはかるしかないのだ。
登場人物の心を読み取るヒントは、彼らの言葉にのみ、含まれている。が、正解はもちろんわからない。
ひょっとしたらなにかしらの行動やちょっとした仕草にも彼らの深層心理が反映しているかもしれない。と、ついつい繰り返し見たくなってしまうのだ。
押井守監督がやっているのはそういうことなのだろう。
わたしたちは、表情から、相手の感情を先読みする習性がある。
笑顔の人を見たら喜んでいると思うし、目が吊り上がっている人がいたら機嫌が悪いのだと感じる。
それは生きていく上で身につけた、ごく自然な知覚だ。
しかしその先読みは、いつだって言葉より強く私たちに印象を残している。
どんなセリフを話していても、表情から受け取った印象が言葉の意味をどこかで塗り替えてしまう。
「大丈夫」と言いながら泣いている人の言葉を、あなたはどう受け取りますか?わたしなら、無理をして「大丈夫」と言っていると感じてしまう気がしています。表情が、言葉の解釈を支配している瞬間です。
だから押井守監督は、あえて表情を消したのだと思う。
わたしたちの「先読み」をいったんリセットするために。
先入観を取り除いて、言葉だけと向き合ってほしいということなのだろう。
表情がなければ、観る側は言葉に向き合うしかない。
セリフの一つひとつを、自分で掬い上げながら読み解くしかないのだ。
第4章:クレショフ効果とぬいぐるみと押井守監督作品の共通点
ここで思い出されるのが、映画の世界における「クレショフ効果」という実験だ。
1920年代、ソビエトの映画監督レフ・クレショフは、一枚の無表情な俳優の顔を、異なる映像と組み合わせてみせた。
食事の映像と並べると「空腹そうだ」、棺桶の映像と並べると「悲しんでいる」、子どもが遊ぶ映像と並べると「微笑んでいる」と、観客はそれぞれ感じた。俳優の顔はまったく同じ無表情なのに、前後の文脈によって感情が変わって見える。
人はそれほど強く、表情や文脈の中に感情を読もうとする生き物なのだということを、この実験は証明してみせた。
そしてぬいぐるみにも同じことが言える。
ぬいぐるみには表情がない。
だから子どもは自分の感情をぬいぐるみの表情に重ねることができる。
それは無意識に起こる。
悲しい時には悲しそうに見えて、嬉しい時には笑っているように見える。
押井守の映画と、同じ構造だ。
ぬいぐるみが悲しい顔をしているからそう見えるわけではない。
子どもの悲しさが、ぬいぐるみをそう見せているのだ。
押井守監督の映画も、めざすところは「ぬいぐるみ」なのかもしれない。
無表情のキャラクターたちが作り出す「無」の中に、観る側はいつのまにか自分自身の感情を持ち込んでいる。
登場人物のセリフを追いながら、気づけば自分の内側を探っているということになるとはいえないだろうか。
第5章:だから何度でも観てしまう
押井守監督は、同じシリーズを手がけた他の監督たちとも、明らかに一線を画す。
『攻殻機動隊』も『うる星やつら』も、他の監督による映像化と並べると、その違いは一目瞭然だ。
好みは分かれるところだと思う。
ただ、押井監督の作品には特にコアなファンが多いのも確かで、一度その世界に引き込まれると、なかなか抜け出せない。
私自身、『イノセンス』と『スカイ・クロラ』は何度繰り返し観たかわからない。
そして定期的に、また観たくなる。その中毒性はどこから来るのだろうと、ずっと思っていた。
答えも、やはり「表情」にあるのだと思う。
作中の人物が何を感じているのか、押井守監督の映画は教えてくれない。
表情がないから、感情が見えない。
つまり観る側は、登場人物の内側を100%自分の想像で補うことになる。
そこで想像する感情は、観るたびに違う。
自分の精神状態が違えば、同じセリフでも感じ方が変わる。
同じシーンが、あるときは静かに、あるときは深く刺さる。
だから何度観ても、同じ捉え方にならない。
何度見てもまだまだ自分が気づいていない機微があるのではないかと勘繰ってしまう。
ぬいぐるみを抱く子どもが、そのときどきの感情をぬいぐるみに預けるように、私たちは押井守監督の映画に、そのときの自分と寄り添って見てしまう。
これがなんとも不思議な感覚で、中毒性があるような気さえしている。
まとめ
ぬいぐるみの話から、思いがけず押井守監督の映画の秘密にたどり着いた。
表情がないから、セリフそのものが響く。
セリフが届くから、感情を感じることができる。
そして観るたびに、新しい感情に気がつける。
その不思議な体験が、私が押井守監督の映画を何度でも観返す理由だったのだと、ぬいぐるみの話を聞いてようやく気がついた。
そうこうしているうちにまたなにがしかの押井作品が見たくなってきた。
またなにか新たな気づきがあるのではないかと心が弾んでいる。
今日の記事はここまで。
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