明日12月17日、鶴岡の七日町観音堂で「だるま市」が開かれます。地元では「観音様のお歳夜(おとしや)」とも呼ばれていて、年の瀬の空気感が、いよいよ本番にかんじられる日です。
実はわたしはまだいったことがくて・・・
明日、はじめて行く予定です。
だから今日は予習のため、記事を書いています。
だるま市って、赤いだるまが並ぶだけの縁日…と思いきや、調べれば調べるほど、しられざる鶴岡(失われた鶴岡)が見えてきておもしろい!
ちょっと長くなりそうな予感ですが、できる限り鮮明にお伝えしたいと思います。
最初にひとことだけ。この記事には、昔の七日町周辺にあったとされる遊郭の話が少し出てきます。刺激的に書くつもりはありません。ただ、ここを避けて通ると「なぜ鶴岡のだるま市が特別に見えるのか」が説明できなくなる。そういう種類の背景です。苦手な方は、その段落だけさらっと飛ばしてくださいね。
鶴岡だるま市は「4つの歴史」が同じ夜に交わる場所
わたしがいちばん面白いと思ったのは、だるま市が、
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つるおかの町(城下町)の歴史
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七日町という場所と遊郭の歴史
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だるま(七転び八起き)の歴史
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切山椒(きりさんしょ)の歴史
この4本が、12月17日という一日(というか一夜)に、同じ場所で結び目を作っているところです。
順番にほどいていきたいとおもいます。
① つるおかの町の歴史:年の瀬の「ならわし」が町を動かす
そもそも鶴岡って、昔ながらの暮らしの中の小さなイベントをとても大切にしている地域なきがします。
そのイベントの中でも大きめの規模が、年越し。
毎年、年の瀬になると、家の中を整えたり、正月の支度を始めたり、祓ったり、祝ったり。
「今年もここまで来たな」と気持ちに区切りをつけるためのわかりやすい儀式なのだと思います。
長い雪の季節を迎える土地だからこそ、こういう“手ならい”が、行事として、ならわしとして続いてきたのだと思います。
面白いのは、鶴岡には「年の瀬の区切り」を確かめるような年夜(としや)の風習が、ひとつだけじゃなく、いくつも残っていること。
大黒様の年夜のように、納豆汁やはたはたの田楽を食べたり、お神酒をいただいたり。―年の終わりを、家の中の習慣として迎える文化が今も生きています。
そして、その年夜の文化の一つが、七日町観音堂のだるま市なのかもしれません。この市は、ただのだるまの特売日ではありません。
観音様のお年夜なのです。
だるま市は、人を集めるために作られたイベントというより、年の瀬のならわしが、個ではなく、町のにぎわいになる特別な日。
だから毎年同じ日に、同じ場所で続いてきて、今も続いている。
そう考えると、鶴岡だるま市の見え方が少し変わってきます。
② 七日町という舞台:町の“表”に人が集まり、“裏”は外へ移った
会場の七日町観音堂。いまの住所表記では本町エリアですが、「七日町」という呼び名が残っていること自体、この一帯が長く“町の中心”だった証拠です。
城下町のころの鶴岡で、七日町は 買い物や用足しの人が集まる場所でした。店があり、人が歩き、用事が片づく。人が集まれば、自然と会話も増えます。
だから七日町は、昔から 話題に事欠かない場所になりやすい。町の出来事も、噂も、新しい情報も、まずここを通って広がっていく。いわば“町の表舞台”でした。
ただ、ここで大事なのは、このころの「表舞台」には“裏舞台”も共存していた時代があった、ということです。
近世の鶴岡では、遊郭(遊里)が七日町や八間町の周辺にあったとされます。いまの感覚だと「え、町の中心に?」と思うけれど、当時は 人の流れがある場所に商いも娯楽も集うのが自然でした。中心地だからこそ、人が来る。人が来るからこそ、町が回る。そういう時代の話です。
でも、そのままでは終わりません。
大正〜昭和にかけて町の仕組みが変わっていく中で、遊郭は 町の中心から切り離されていく方向に動きます。
交通の流れが変わり、町の再編が進み、風紀や衛生の考え方も強くなる。結果として、七日町や八間町の側にあった遊郭は、のちに 双葉町のほうへ移転していきます。そうして、七日町はいつしか表舞台のみがのこされたのです。
調べれば調べるほど面白いです。
この流れを押さえると、だるま市の場所にも意味が出ます。
七日町観音堂で開かれるだるま市は、観光イベントというより、まず 町の中心で起きる年の瀬の用事として、古くから親しまれてきた行事だということがわかります。人が集まる場所で、年越しの支度が“市”になる。だから毎年、自然に人が集まり、話題も集まり、町の暦として残ってきた。
いまもなお、だるま市は年に一度、大いに賑わうのです。
そしてこのだるま、なぜかこの遊郭で働く遊女から、大変愛されていた歴史がありました。
③ 遊郭の歴史:語りにくい背景が、“願い”の濃度を上げる
先ほども少し触れましたが、七日町周辺には、かつて遊郭があったと伝えられています。いまの感覚で簡単に語れる話ではありません。そこに生きた人たちの状況は、自由や選択が限られていたはずだからです。
当時の女性が遊郭に入る理由は、本人の意思だけでは説明できません。
不作や貧しさ、家の借金、親の病気。そういう事情で、娘が「年季奉公」という形で預けられることがありました。
遊郭からお金を借り、娘が年季奉公して何年もの年月をかけてお金を返す。前借り金が家の助けになる一方で、それは本人の“借り”にもなり、簡単には抜け出せない。
だまされたり、口入れを通じて連れてこられたり、行き場を失って流れ着いたケースも語られます。
事情は人それぞれでも、共通するのは「自由に選べる状態ではなかった人が多い」ということです。
ただ、その背景があるからこそ、「だるま」が縁起物以上の意味を持ったのだろう、と想像できます。
遊郭に生きる女性たちは、その生業や生き方に満足している人ばかりではありません。
きっと、いつか、人生を変えたい。状況を変えたい。明日を変えたい。そういう気持ちを抱えていたはずです。自由に表に出ることも簡単ではなかった時代に、年の瀬の観音様の年夜(だるま市)は、町のにぎわいの中に混ざれる貴重な日だったのかもしれません。
その日に手にできる「象徴」が、だるまだった。
そう考えると、赤いだるまが急に、ただの飾りじゃなくなります。
④ だるまの歴史:「七転び八起き」は根性じゃなく、立て直しの感覚
だるまは達磨大師をモデルにしたと言われ、禅の世界とも結びついて語られます。だるまが赤い理由も、法衣の色、魔除け、疫病よけなど諸説がある。でも、生活者としてのだるまの本質は、もっとシンプルです。
だるまが“暮らしの道具”として強いのは、難しい知識がなくても意味が伝わるところです。置けば目に入る。触れれば揺れる。倒しても起き上がる。
倒れても起き上がる。この動きが、目の前にある。それだけで人々は勇気をもらえたのだと思います。
ダルマを見ていると、なにか足元を掬われるようなことが起きても、きっと立て直せるような気がするものです。しかも、だるまは何も言わない。黙って、起き上がる。ここが強い。
③で触れたように、遊郭で生きた女性たちには、自由に人生を選べない事情があった。だからこそ、だるまの「起き上がる」という動きは、ただの縁起物以上に響いたのだと思います。思い通りにできない身の上であっても、負けない。そんな勇気をだるまから受け取っていたのかもしれません。
だるまは両目が描かれていない状態で売られています。目を入れることが、だるまを買う目的と同義だからです。
目を入れる風習は「願いを言葉にして置く」ことと同じ。目を入れること自体が、気持ちを整える作業なんです。願いが叶うかどうか以前に、「自分は何を叶えたいのか」をちゃんと見える形にする。年末にこれをやるのは、すごく理にかなっている気がします。
遊女たちの願いは、ふわっとした理想ではなく、暮らしに直結していたはずです。病気をしない、揉め事に巻き込まれない、指名が途切れない、借りを減らす、いつかここを出る。そういう願いを“目に見える形”にして部屋に置けるのが、だるまだった。
さらに赤い色も、当時の感覚では「きれい」以上に「守り」の意味があった。
たとえば赤は、疱瘡(天然痘)よけなどの病よけや厄除けの色として扱われ、赤い人形やお守りが身近に置かれていた。人の出入りが多い場所だからこそ、そういう意味を強く感じた人もいたと思います。
そして鶴岡では、そのだるまを手に入れられる日が、観音様のお歳夜(だるま市)だった。町の中心がにぎわう夜に、いつもとは違う空気の中でだるまを買い、「来年はこうする」と目を入れる。だるまは、縁起物というより、来年の自分に置いておく“しるし”になったのかもしれません。
⑤ 切山椒の歴史:だるま市の“味の合図”
そして鶴岡のだるま市に欠かせないのが、切山椒。短冊状の餅菓子で、甘さのあとに山椒の香りがピリッと立つ、あれです。
切山椒って、お菓子なのに、なぜか「行事の一部」みたいな顔をしてる。香りが強いから、記憶に残るんですよね。「この香りが出たら、年末だ」って、体が先に理解する。
じゃあ、なぜ「だるま市」で切山椒なのか。
わたしは、理由はわりと現実的だと思っています。
ひとつは、持ち帰りやすいこと。寒い時期の縁日で、家に持って帰って分けられる。手土産にもなる。年の瀬の買い物の流れに、すっと入るお菓子です。
もうひとつは、やっぱり香りの力。山椒は昔から、香りで空気を変えるものとして扱われてきました。今みたいに「厄除け」って言葉を前に出さなくても、感覚としてはわかる。口に入れた瞬間、ふわっと強い香りが立って、気分が切り替わる。あれは小さいけれど、ちゃんと「合図」になります。
そして、だるま市は観音様のお歳夜。縁起物を買う夜です。
だるまが「形の縁起物」なら、切山椒は「食べる縁起物」。手に持つものと、口に入れるもの。両方そろうと、年末の切り替えが完成する。これが鶴岡のだるま市のかっこよさだと思います。
だから、切山椒は「おやつ」なのに、年末行事の顔をしてる。
味と香りで、年の瀬のスイッチを押してくるから。
だから、鶴岡だるま市は「美しい」
城下町として人が集まる流れがあり、七日町という舞台があり、語りにくい背景も含めた“変えたい気持ち”がそこに積み重なり、だるまがその気持ちを受け止め、切山椒が暮らしに着地させる。
この4つが、毎年12月17日に、同じ場所で立ち上がる。
だから鶴岡だるま市は、ただの縁日じゃない。町の記憶の集積なんだと思います。
わたしが「日本で一番美しい」と感じるのは、見た目の派手さじゃなくて、人の暮らしと気持ちが、そのまま形になって残っているから。赤いだるまの赤が、なぜか静かに見える瞬間があるのも、きっとそのせいです。
明日は体験編へ:どう楽しむ?なぜ愛される?
明日は実際に行って、時間帯、混雑、回り方、だるまの選び方、切山椒の食べ比べ(できたら)、写真の撮りどころまで、具体的にまとめます。
そして最後に、「なぜこんなにも愛されるのか」を、今日の予習と現地の体感をつないで言葉にしたいと思います。おたのしみに❣️
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