知人がエキストラで出演したと聞いて、映画「でんでら」を見ました。
草笛光子、倍賞美津子、浅丘ルリ子。そうそうたる顔ぶれです。知人の出演がなければ、たぶんそのままスルーしていたかもしれませんが、このキャストなら見応えはありそうだと感じました。
庄内オープンセット(セディック)で撮影され、劇中で使われている言葉は庄内弁。なんとなく親近感もあります。
知人を探しながら、最後まで見ました。結局、見つけられませんでしたが、なかなか興味深かったのでご紹介します。
雪深い山の中で、人は人を捨てていた
序盤から雪景色が続きます。冬の山の中で、老いた女性が捨てられていく場面が、静かに、しかし繰り返し描かれます。
姥捨てという風習です。
わたしはずっと、姥捨てとは特定の場所で起きていた話だと思っていました。長野県の姨捨山のような、有名な伝説の地があるように。
でも実際には、全国各地に伝承として残っているものだそうです。この映画の題名「でんでら」も、岩手県遠野の「でんでら野」に由来するとされています。柳田国男の遠野物語に登場する、老人たちが余生を送る場所として描かれた言葉です。
この映画はとにかく終始雪が降っていました。姥捨がなぜ冬に行われていたのか、不思議に思いました。
食糧が枯渇する冬、口減らしの必要性が高まるからというのが現実的な理由のひとつでしょう。雪山に捨てることで、苦しまずに逝かせたいという感情もあったかもしれません。優しさと残酷さが、同居しています。(このあたりは諸説あり、歴史的にも議論があるようです)
そしてもうひとつの疑問。なぜ女性が先に捨てられるのか。
子を産めない女に価値はない。それだけのことです。
産む機能が失われた瞬間に、女性としての役割は終わりとされた時代です。どれだけ家族のために働いてきたか、どれだけ家を支えてきたか、そんなことは関係ない。子を産めなくなったら、口減らしの対象になる。
それでいうと、生む機能がなくなって、はじめて男性と同等の「人間」になるはずなんですけどね。理不尽にもほどがある、と思いましたが、それ言っても始まらないのがもどかしいところです。
捨てられた婆たちのゆくすえ
さてここからが映画の核心です。
姥捨て山に捨てられた老女たちが、ひっそりと生き延び、でんでらという秘密の村を作っていました。草笛光子演じる創設者が30年かけて育てた、50人の共同体です。
痛快です。
「捨てても死ななかった」という、ただその事実がすでに答えです。
家事も食料調達も、長年やってきた女たちですから、共同体を作ることなど朝飯前だったのかもしれません。
どんなに貧しい格好をしていても、草笛光子には花があります。倍賞美津子も浅丘ルリ子も同じです。本物のオーラというのは、ボロをまとっても隠せないのだと実感しました。
助けられたルリ子は、目を覚ました時に自分が生きているのか死んでいるのかわからなかったかもしれません。でんでらに見知った顔を見つけた時の混乱は、想像するだけで胸が痛い。自分より先に捨てられたはずの仲間が、みんな生きている。それはつまり、ずっと信じてきた「姥捨て=極楽浄土への道」が嘘だったということです。
幼い頃からの教えを覆すのは、そう簡単ではありません。目の前に証拠があっても、すぐには信じられない。信じてしまうと、それまでの自分の人生ごと崩れてしまうから。
草笛光子の怒りと、倍賞美津子の諦観がぶつかり合います。復讐のために村を襲いたい草笛光子と、そんな恨みは忘れた方がいいという倍賞美津子。どちらの気持ちもわかるから、目が離せません。
「人こわ」から始まった物語が、どこへ向かうのか。
女の業か、執念か、それとも解放か。固唾を飲んで見守っていたわたしに、衝撃の展開が待っていました。
「死ねて幸せ」と信じて育った女たち
この映画でいちばん重いのは、ここだと思います。
捨てられる女たちは、子供の頃からこう教えられて育ちます。姥捨ては極楽浄土への道だ。天に召されることは、この上ない幸福なのだと。
浅丘ルリ子は、姥捨てに選ばれた時、村の長老にお礼を言っていました。
お礼を、言っていたのです。
選ばれることは、極楽浄土への切符を手にすることと同義だったからです。しかもそれは単なる死ではない。村のみんなのために命を捧げることで徳を積む、尊い行いとして教えられていた。死を恐れるどころか、選ばれなかった者より選ばれた者の方が恵まれているとさえ思っていたかもしれません。
なぜそこまで信じられるのか。
ちょうどこの時代、浄土真宗が民衆の間に急速に広まっていました。「南無阿弥陀仏と唱えるだけで、誰でも極楽浄土へ行ける」という教えです。難しい修行も、特別な資格も必要ない。手を合わせて唱えるだけでいい。その教えが、識字率の低い庶民にも、女性にも、驚くほど素直に届いたのだと思います。
捨てられた直後、浅丘ルリ子が手を合わせて「極楽浄土、極楽浄土」と繰り返すシーンがあります。その横顔が、恐怖ではなく、どこか穏やかなのです。
姥捨て=極楽浄土への道。村への奉仕。この上ない幸福。
宗教と風習と道徳が三つ巴で結びついた時、それは疑いようのない「真実」になります。
誰かが意図して組み合わせたのか、自然にそうなったのかはわかりません。ただ結果として、捨てられる側が死を喜んで受け入れる構造が出来上がっていた。
口減らしを決める側にとって、これほど都合のいい仕組みはありません。
担いできた男衆は、ルリ子を置き去りにする瞬間、謝り、手を合わせ、逃げるように立ち去ります。
後ろめたさがあるから逃げる。
なのにルリ子は、それを穏やかに見送っています。捨てる側より、捨てられる側の方がずっと穏やかです。
力尽きて倒れ、カラスに突かれそうになったところを助けられた後、ルリ子は助けた者たちを責めます。
「なんで助けたんだ」と。死んで極楽浄土に行きたかったのに、と。
洗脳の完成形です。
幼い頃からの教えを覆すのは、論理では無理です。
目の前に生きている仲間がいるという事実を見せられても、感情と信仰がついていかない。
信じてしまうと、それまでの自分の人生ごと崩れてしまうから。
「騙されていた」と気づくことは、救いであると同時に、残酷なことでもあります。
さらに残酷なのは、同じ女性たちがその価値観を内側から守り続けていたことです。
生きて山を下りることを恥と罵り、捨てられた仲間を「極楽浄土には行けない」と断罪する。
支配する側が自らの手を汚さずに済む、もっとも効率のいい仕組みです。
外から鍵をかけなくても、内側から出ようとしなくなる。
これが「人こわ」の本質だと思いました。
summary
そういえば最近、熊出没のニュースをよく見ます。市街地に出た、農作物が荒らされた、人が襲われた。そのたびに「怖いな」と思いながらスクロールしていました。
でもこの映画を見て思いました。
熊からすれば、人間の方が先に山に入ってきたのです。
でんでらの婆たちと同じです。
熊のテリトリーに踏み込んでおいて、出てきたら怖いというのは、少し身勝手な話かもしれません。
令和になっても、人と熊の関係は何も変わっていない。
そういう意味では、今こそ見るべき映画なのかもしれません。
さて、ここで改めて気づいたことがあります。
カユは70歳で捨てられ、でんでらで30年生き延びています。
つまりあの雪山を走り回っていた時、カユは100歳です。
100歳が、熊を誘導しながら雪山を走っています。
現実的かどうかはもう、どうでもよくなっていました。
復讐心という執念がそうさせたのか。
自然と共生して生きてきた逞しさがそうさせたのか。
たぶんどちらもなのだと思います。
「人こわ」を見に行ったつもりが、「熊こわ」になって、最後に気づきました。
でも、いちばん怖いのは、「女」でした笑
でも、一周回って、たくましい女ってかっこいい!
と思いました。
初めてみる人は、コメディだとおもってみると楽しいかも!
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